ケージに入ったうさぎ達がひくひくと鼻を動かす実験室の中で、オーヴェー博士は虚無に至っていた。
まさか自分の発明が戦争兵器に利用され、たくさんの命を奪うことになるとは想像していなかった。これは世界の愛と平和を実現させるための実験だ、と意気込んでいたから尚のこと、博士にとってはショックな出来事だった。
兵器の威力が人々を殺したあの日から、博士はずっと虚無状態になり、何度も悪夢を見たし、何度も吐いた。
たくさんの人の苦しみながら死んでいく様子が夢に出てくるのだ。
無論、オーヴェー博士は天才だった。IQは600以上あり、誰も解けないと言われていた方程式を難なく解いた。年齢もまだ若く、これからの化学界にとって期待の星だった。博士自身もそのことを誇らしく思っていて、鼻高々に過ごしていた。ただ何よりも大事にしていたのは「ラブ&ピース」である。
オーヴェー博士には父親がいた。父親もまた、天才科学者だった。そしてとても優しい人だった。彼はテクノロジーは人の役に立つためにあり、愛を伝えるためにあると信じて、息子にも「愛と平和」の大切さを昔から聞かせていた。
父親は「果実の同盟」という世間的には秘密組織とされているところに所属していたが、この組織は本当は未来永劫平和で誰も傷つかない「世界」を存続させるためのもので、決して悪の組織などではないという。
だからオーヴェー博士もそれを信じたし、父が亡くなった時には涙が止まらなかった。父の意志を継いで自分が科学者になった時にも同盟の仲間たちが協力してくれた。
更にオーヴェー博士には生まれた時からの友達がいた。それが父から贈り物として貰ったうさぎ達だ。うさぎ達は悲しい時にもオーヴェーの側にずっといてくれた大切な友達だ。
しかし多くの人の命を奪った自分がこの世界に生きてていいはずがない。せめて自分がいなくなってもうさぎ達を大事にしてくれる誰かがいたら。オーヴェーは時計の針を見上げ、次の発明の用意をした。
「うえ〜ん、動かないよ〜。」
サーカスの団長ミラーボールは湖のほとりで止まってしまった電車の修理に苦戦していた。
「嘘でしょ。こんなことあるのかよ。」
カラフルな風船を持ったまま、ピエロのハッピーは呆れていた。他のサーカスの団員も同じようにしている。
「だってこの列車は従来の化学の知識だけじゃあ、動かないんだもの。あ〜あ、どこかに天才物理学者でもいないかなあ。」
「それ以前にあんたが機械音痴なんだろ。」
ハッピーの指摘にミラーボールは涙目で振り向く。しかし反論するかと思いきや、その目は茂みの向こうに焦点を合わせていた。何やらがさごそと動いている。
なんと茂みの向こうから白いうさぎが一匹ぴょこんと現れたのだ。
「みーつけたー!」
ミラーボールは急に笑顔を取り戻すとうさぎを追いかけ始めた。
「いやどこ行くの!そいつは天才物理学者じゃなくてうさぎだよ!!」
ハッピーは慌ててミラーボールの後を追った。
「出来た…。」
オーヴェー博士は完成した発明品を眺めるとコップに注がれた液体を飲もうとした。すると、がたん!家の玄関から大きな物音が聞こえた。
「最悪だ…。あとちょっとだったのに…。」
博士は寝癖だらけの頭を掻き上げ、玄関に向かった。そこにはシルクハットを被った妙な人物がうさぎを抱えて立っていた。その人物はオーヴェー博士を見つけると微笑んだ。
「やあ、キミか。」
「誰だ?あんた。」
「ボクはミラーボールだ。宇宙一のサーカス団の団長だ。ボクちょっと白うさぎを追ってたらここまで来てしまったんだ。」
なんだか台詞じみた喋り方だ。本心から話してるような、台詞を読み上げるようなアンバランスさがある。更にこのミラーボールという奴は性別も年齢も判定できない。目の色が角度によって全然違っていて、まるで宝石を嵌め込んだように見える。作られた人形みたいな感じもするが、こんな人形を今の化学技術で作れる者がいるとは思えない。しかも自分以外で。
ミラーボールは前から博士を知っているかのように親しげに話しかけた。
「キミは、アレだね。イナバ博士の息子さん?」
オーヴェーは怪訝に感じた。何故、こいつがそんなことを知っている?
「イナバ・セト博士の息子、オーヴェー・セトだね?」
「お前、何者なんだ…?」
「だから今言ったでしょ。」と言いながらミラーボールはオーヴェーの持っていたコップに視線を移した。まずい。持ってきていたのか。水だと思ってくれれば。
「キミの持っているのは塩酸だね?塩酸を飲もうとしたの?」
オーヴェーはしまった、という顔をしてそれをさっと隠した。「誰だか知らないけど帰りなさいよ。俺は実験があるんだから。」
すると今度は激しい音を立てながら全身ピンクに髪もピンクなピエロが入ってきた。サーカスの団員だろうか。
「こんなとこにいた!さっさと戻るぞ!」
「待った、ボクはここにいることにするよ。オーヴェーが透明になりそうなんだ。」
ピンク髪のピエロはちらっとオーヴェー博士の顔を見た。ミラーボールほどではないが、このピエロも見透かしたような目をしている。特に左目がミラーボールと似ている気がした。
「もう少しだけ待ってくれないかな?それにボクはキミを探していたんだ。」
ミラーボールはオーヴェーににこっと笑いかけた。
そんなわけで、オーヴェーが何度追い返してもミラーボールは聞かなかった。ハッピーというピエロもまともそうだと思いきや余計なことは言わない割にオーヴェーの同行をじっと見ているところがある。これじゃあ自殺もやりづらい。
「なんで消えようと思ったの?」ハッピーが遠慮なく聞いた。
「どうだっていいだろ。俺は大量殺人鬼なんだよ。」
オーヴェーの腕にはたくさんの傷跡がある。あれから何度も自己を傷つけていたのだ。ハッピーは詳しくは問い詰めずにその辺のものを暇そうに見ていた。
すると勝手に実験室へ入っていたミラーボールが大声を上げた。「わーすごーい!」
オーヴェーは慌てて実験室へ行く。「何入ってんだよ!」
「だってすごい発明品ばっかりなんだもの!オーヴェー博士!キミは天才だね!」
素直に褒められたので、オーヴェーは嬉しくなって話し出した。
「ふふん!そうなんだよ!俺って本当に最高で天才でしょ?なんならイケメンだし!ちなみにこの試作品92654号はなんと酸素のある空間でも宇宙みたいな無重力体験ができるんだ!更にこっちはなんと世界中のテレビが同時で見られるんだぞ?最っ高でしょ?」
オーヴェーは一気にべらべらと自分の発明について解説した。ハッピーがさっきまでとは違う様相に呆然としている。
オーヴェーははっとして、黙った。
「…悪い。それでも大量殺人鬼に変わりないよな。」
ミラーボールは目を輝かせた。
「すごい!すごい!今のが本当のキミなんだね?どうせ人生が終わるなら少しでも楽しいことがなくちゃダメだ!今からこの発明品を街の子供達に見せよう!」
「はあ?何言って。第一街なんてどうやっていくか知ってるのか?ここ山の中だぞ?」オーヴェーは言った。ミラーボールはにやりと笑う。
「どこでも行けるドアだって作ってあるんでしょ?」
ミラーボールはなんだかんだで自尊心の強いオーヴェーを持ち上げてくれるので仕方なく街の噴水前まで来てしまった。サーカスと同じ手法で子供達を呼び寄せ、化学ショーをやってみせる。
最初は気乗りしなかったオーヴェーも自分の発明で子供達が笑っているのを見ると、次第に多弁になって色々と実験について説明し始めた。何より驚いたのはミラーボールやハッピーとの掛け合いがものすごくマッチしていて話しやすい。さすがサーカスの団長とピエロという感じだ。
最後の実験まで説明し終えると子供達から拍手が沸き起こった。
「すごいね!やっぱり科学者はええ自尊心を持ってないと駄目ってことかな?」
「黙りなさいよ。第一そんなシャレみんなに伝わってないから。」
「おっさん次はどんな発明を見せてくれるの?」
「おっさんじゃないから!年齢はあなたと一個しか違わないでしょうが!今日の実験はもうおしまい!」
ハッピーに突っ込みオーヴェーはやるがままにやった化学ショーを終える。子供達が笑顔で興味深々に見ている様子に自然とこっちまで笑顔になった。
「あ、笑った。」ハッピーが顔を覗き込む。
「あんた笑ってる方が絶対いいよ。どんな時でも笑顔でいれば辛いことなんて飛んでいくんだよ。」
ハッピーが本心ともジョークとも取れないことを言った。オーヴェーはなんだそれ、と吹き出す。
「でも確かに、そうだな。俺は本当は誰かが俺の発明で笑顔になってるのを見ると心から嬉しくなって笑顔になっちゃうんだよ。」
そうだった。本当は自分の発明で世界中が笑顔になって愛と平和で溢れた世界になって欲しいと心から思っていた。きっと父さんもそう願っていたはずだし、平和になった世界を自分が眺めて更に貢献出来たらこんなに幸福なことはない。
「あんた達はいいよな。サーカスではいつだって笑顔に溢れた空間を届けられる。」
ハッピーは何か感動したのか無言でオーヴェーの肩に手を置いて言った。「よし。今日は美味いものを食おう。」
でん、と食卓に置かれたのは遠い国の家庭的な食材だった。白くて艶のある米、醗酵させた大豆を溶いたスープ。野菜と更に3つのおかずがある。
「…これは何て食べ物?」
オーヴェーの問いにミラーボールが答える。
「焼肉に卵焼きにアジの開きさ。キミも気にいると思うよ。」説明しながらむしゃむしゃと食べている。
食べたことのない料理にオーヴェーは匂いを嗅ぎ、口に運ぶ。そしてあまりの美味しさに目を丸くする。
「うっっま!」
「オーヴェー。大事なことはね、美味しいものは大切な誰かと食べるということだよ。」
オーヴェーの心は温かくなっていった。世界にはこんな美味いものがあって、誰かの幸せのために生きてる奴らがいるのか。こいつらと同じように自分もまだまだ誰かの幸せのために生きていけるかもしれない。
「しかしこんな美味いもの今まで食べたことなかったな。一体どこの国の料理なんだ?」
「ここよりずっと遠いシマグニさ。ハッピーの故郷なんだ。あの国の人は普段からこういうものを食べてるから、とても健康なんだ。」
ミラーボールが何気なく答えた言葉が引き金だった。シマグニだって?あの国は俺の発明した兵器でたくさんの人が亡くなった国じゃないか。途端にあの日同盟から送られてきた映像がフラッシュバックする。
食べたものが逆流して喉元まで込み上げて来る。オーヴェーは二人の反応も気にせず、実験室まで走った。
全て吐き出して汲んでおいた塩酸の入ったコップを口に運ぶ。「待てよ!」ハッピーが思わずコップを取り上げ割ったので近くにあった書類が溶けた。
「止めないでこのまま死なせてくれ!」
実験室の籠でうさぎ達が鼻をひくつかせた。
「一体どうしたんだよ!」
「……俺がやったんだ。」
「え?」
「俺があの国の人達を大量に殺した兵器を作ったんだ!」
ハッピーの目から光が消えるのがわかった。
「俺だって最初からあんなことななるなんて知って開発したんじゃない。だけど父さんと繋がっていた同盟が世界の平和のために悪い奴らをやっつけなくちゃいけないって言うから本当だと思って協力したんだ。あいつらから送られてきた映像を見てやっとわかったんだよ。とにかくこんな俺が生きてていいはずがない。わかったらさっさと死なせてくれ!」
ハッピーは黙っている。
「それから頼みがある。俺が死んだらそこの白い箱を開けろ。それが最後の俺の発明品なんだ。その箱はパラレルワールドと繋がっていて、開けば俺が産まれなかった世界にこの世界を改変できる。俺が生まれなければ誰も苦しまなかったんだよぐはっ!」
ハッピーに思い切り顔を殴られた。ハッピーはそのままオーヴェーの胸ぐらを掴むとドン!と床に押し付けた。
「てめえさっきから勝手なこと言ってんじゃねーよ!」
あまりの気迫にオーヴェーは驚く。ハッピーの瞳は灼熱の太陽みたいに燃え上がってみえた。
「そうだよ。俺はテメーの兵器のせいで故郷の家族も恋人も全部失ったんだよ!だったらそんなお前が死んで楽になるだなんて卑怯なこと考えてんじゃねー!生きて世界中に自分がやりましたって言って罪を償えよ!何で…!お前なんだよ!!」ハッピーの目から涙が溢れ、オーヴェー博士の頬に落ちた。
「俺だってそうしたいさ。だけど俺の存在は誰にも知られちゃいけないんだ。だったら人知れずいなくなるしかないだろ。」
「だからなんでだよ!!」
ハッピーが吠えたてて叫んだ時、「キミの自己犠牲はまるで自ら業火に身を投げて旅人にもてなすうさぎのように尊いね。だけど自己犠牲は罪悪だ。」後ろからミラーボールの声がした。ミラーボールはオーヴェー博士を見てニコッと笑う。
「キミは世間に知られてはいけない存在であり、更に自分を傷つけるぐらいには自己犠牲精神が強い。それは何故か、キミが作られた人間だからでしょう?」
ハッピーはオーヴェーの胸ぐらをぱっと離した。オーヴェーは答える。
「ああ。俺は果実の同盟が隠したかった人体エネルギーを発見した科学者の頭脳と、同盟が目指す愛と平和の理念を人工的に構築して作られた人造人間だ。」
「だから、本当の愛と平和を理解しているかわからない。キミを製造したのが果実の同盟のイナバ・セト博士だよね。」
オーヴェーはこくりと頷く。
「キミは最後の発明でキミが製造されることのないパラレルワールドとこちらの世界を融合させ、歴史を変えることで平和な世界を築こうとしたんだよね。
だけどそんなに世界は簡単なものじゃないよ。キミがいなくても果実の同盟の本質は変わらない。別の世界でも新しいキミが作られる。それにキミがいなければこの後の人類の化学技術は良くも悪くも発展しない。キミがキミとして今ここにいることはどんな方程式でさえ、必ず高確率でそこにたどり着く運命、デスティニーなんだ。本当に幸せで平和な世界を存続させるにはキミがキミとして生きていかなきゃいけないんだ。」
「だからそんなの一部の権威あるやつらのための幸福な世界だろ。」
「違うよ。キミを一人にしないための世界存続計画だ。」
ミラーボールははっきりと力強く言った。
「だけど、結局父さんも俺のことを本当に息子だと思ってたかわからない。俺を必要としてるやつなんて。」
「たくさんいるじゃないか。キミの父親がキミのために用意した友達が。」ミラーボールはケージに入ったうさぎ達を指した。オーヴェー博士を創り出した父、イナバ・セト博士はよくこう言い聞かせていた。お前には世界を愛と平和で溢れた場所にする役割がある。ラブ&ピースはどんな時代でも大切なことなんだ。それでもお前が孤独を感じないように、幸福の象徴であるこの子達をプレゼントしよう。この子たちは困った時お前を助けてくれるだろう。悲しくなった時は、Love it.目の前にいるそいつを愛することから始めるんだ。
博士はそんな話をしてオーヴェーにうさぎ達をくれたのだった。うさぎはピースしてる時の手の形と似ていてオーヴェーはすぐ好きになった。
「永遠に悲しみのない世界を存続するために、キミもボクの列車に乗らないか。」
ミラーボールはオーヴェーに手を差し伸べた。
「実は列車が故障してしまってね。元に戻すにはキミのその発明品が必要なんだ。あらゆるパラレルワールドを一つにするその装置がね。」
オーヴェーはミラーボールに誘われるまま、先程の発明品を持って泉の近くまで着いて行った。なるほど泉の岸辺に線路も何もないのに巨大な列車が停まっている。
オーヴェーは故障している箇所を見て驚いた。今の科学技術では絶対に移動できない原理で移動していることがわかったからだ。いや、10年後20年後の技術でも難しいかもしれない。何億年とかけないとこんな列車は作れないしあるいは列車そのものが意思を持った生き物のような感じもする。
つまりこの列車は時間も世界線も越えられるのだ。
オーヴェーはミラーボールの顔を見て言った。
「あんた本当は何者だ?果実の同盟とは関係あるのか?」
「ボクはボクだよ。世界中の幸福を集めて本当に幸せな世界を存続させるエネルギーにするんだ。キミも一緒にやってくれないかな?」
オーヴェーの答えは決まっていた。こんな興味深い列車に乗らないわけがない。それだけではない。多くの人の命を奪った自分が、本当に幸せな世界を創るためには業火の中で何度焼かれたって構わない。みんなを幸せにすることに命をかけるのだ。
ミラーボールはオーヴェーの瞳を見て答えを察したようだ。「わかった。じゃあボクと耳を共有しよう。世界中の全ての声を聞くんだ。」
ミラーボールが言うとうさぎ達がさあっと列車に乗って行った。同時にオーヴェーの耳はうさぎのように毛が生えて、長くなった。その瞬間オーヴェーにはたくさんの音や声が聴こえた。世界中の願いや叫び、動物達や木々の声、過去から未来までの音楽が一つに鳴り聴こえてきた。ああ、ミラーボールというのはそういう存在なのだと理解した。
気がつくと、オーヴェーの姿はうさぎの耳を生やしたピエロになっていた。顔と髪、服の半分が赤、もう半分が青になっている。
「キミは今からオーヴェー博士ではなく、Love it、ラビットだ。」
「ラビットか。悪くないな。」と言いながら自分の耳をいじってみる。
ハッピーはその様子を見てやれやれといった顔をした。
「ていうか、会った時から思ってたんだけど、ミラーボール、服が後ろ前だよ。」
ハッピーが吹き出した。「ぷっ……ひゃははははははは!」
ミラーボールはさっきまでの怪しげな表情を一変させて慌てて着替え直す。「うるさいな!これもジョークなの!それから団員になったんだからボクのことはミラーボール団長と呼んで!」
こいつ相当抜けてるな。ラビットは鼻で笑った。ミラーボール団長の帽子から顔を覗かせた白うさぎがヒクヒクと鼻を鳴らした。