例えば今この瞬間に地面が割れて太陽がなくなっても私は走ることを簡単にやめられないだろう。
走るのが好きだから走っているのではない。そうしなければならないから、そうするしかないのだ。
世界が終わるような壮大なことを考えているけれどこれは部活だ。私の学校では必ず部活に入らなければならない。しかも運動部しかなく球技が苦手な私が入れるのは陸上部しかなかっただけだ。
正直言って、走るのが楽しいと思ったことは一度もない。ではどうしてまだ走ることをやめようとは思わないのだろう。それは生きていることが苦痛な私の人生にとって唯一繋ぎ止められるもののためだ。
学校の裏のトンネルを抜けると古い道になる。そこを真っ直ぐ進むとかつて火事になった美術館がある。そこから更に進むと小さな神社がある。そこで毎日お願いごとをするのだ。
「笑ニ神神社」(えにがみじんじゃ)。
この神社には次のように書かれた札が立っている。
「泣いた赤鬼の赤鬼と青鬼は何百年も経って再会しました。彼らの姿は一つに混じり合って、「世界の記憶」となりました。そして今それは、ここに祀られているのです。」
「世界の記憶」というのがなんなのかはわからない。だけどこの場所を見つけたとき私は不思議な感動を覚えた。
なぜなら昔話だと思っていた「泣いた赤鬼」が存在したかもしれない、そしてあの物語には続きがあったということがわかったからだ。
私はあの物語が幼い頃から好きだった。どうしてかわからないけど何故か心を惹かれてしまったのだ。
この神社のことを詳しく知っている人はおそらく学校にはあまりいないだろう。この島には昔からの鬼の伝説があるけど詳細を知っている人はとても少ない。その日は何故か吸い込まれるように私は境内に入っていった。
中は他の神社と大して変わらない。ただ本堂の中心にまるで何か強いものを封印するかのように箱が置いてあり厳重にしめ縄がかかっていた。それはまるで大きな蛇のようだ。
そして箱の上には一つの丸い鏡が置いてあった。壁にはこのように書かれた紙が貼ってある。
「中心の鏡に自分の顔を写して願い事をするとそれが叶います。」
そんなことがあるわけない。でももしも本当に叶うなら叶ったらいいなと思うことがある。この願いは誰に話しても理解されないだろうし、そんな話が通じる人が自分の周囲に現れたことはない。でももしも叶うなら…。
私は鏡の中心に自分の姿を写して願った。
いつからだろう。自分の存在が何者でもないと感じるようになってしまったのは。あなたの存在なんて大したことない、だから言われた通りのことをやって、例え理不尽なことがあってもそこに疑問を持ったり反抗したりせずにみんなと同じようにしなさい。そうすれば安定した幸せをずっと保っていけるのだから。
社会に出て、生活のためにお金を稼がなければ生きていけないと知った時にあの頃描いた夢はとうに薄くなっていった。その世界に行くには本当はずるいやり方をしなければいけない。努力なんてものは全て嘘で要領の悪い人は一生社会不適合社として生きていかなければならないのかもしれない。
子供の頃にしていた願い事も何を願ったかなんて忘れてしまった。私の願いなんて非常に抽象的で願いと呼べるものではなかった気がする。
たまに未来への希望ややりたいことができても仕事の中で苗字で呼ばれる度に下の名前もわからなくなり、自分が何者でもないのだという現実に戻ってしまう。
「弥栄(いやさか)さん、まじ気をつけて」
「はいすみません」
こんなやりとりを何度してきたことだろう。それでも今は高級リゾート地のホテルにいさせてもらってるだけマシかもしれない。今日は何か重大なパーティーがあるのかレストランの設営をやっていた。テーブルには天井に届きそうなぐらい高く赤ワイングラスが積まれている。
私は台車にさまざまな料理を乗せて会場まで運ぼうとしていた。テーブルの近くまで来た時に思わず台車がテーブルに当たってしまった。途端に
ガッシャーーン!!
積まれていたワイングラスが全て粉々に地面に叩き落とされた。
「何やってんだ!!」
「バカじゃないの?」
「あなたのせいで今日のパーティーに間に合いません。」
「弥栄さん今日はもう帰っていいから。」
どのようにして帰る準備をしたかも覚えていないが私は一目散にその場を後にした。まるで走るしかなかったあの日のように。
今日も帰ったら、リストカットをしよう。
自分という人間はこの社会において何も貢献できることがない一つの記号なのだから。
帰り道を歩いているとまるで全てを包むような巨大な月が街を見下ろしていた。自分も月に行けたらいいのに。月なんて本当にあるかもわからないけど。
すると何かが月の中心からこちらへ向かって進んでくるのが見えた。それは次第に大きくなっていく。
この後の話はきっと言っても誰も信じてくれないだろう。月からこっちへ向かってきたのは巨大な列車だった。昔の蒸気機関車だ。列車は汽笛の音色を鳴らして私の目の前で止まった。こんな大きな音がしたら近所の人間が見に来るはずなのに私以外の人間は誰も来ない。まるで時間が止まったような感じだ。
そして次に信じられないのは列車の1両目の扉が開いて中から誰が出てきたことだ。
頭の上に大きなシルクハット、銀河のように青い燕尾服に髪は右側が虹色、左側は真っ白だった。杖をついていて先端にはミラーボールが光っている。ヒールの部分がバネになったヘンテコな靴を履いている。
顔は若くて少年のような少女のような顔をしている。なんとなく「無性」という言葉が頭に浮かんだ。
目は天の川のように輝いていて心の底から笑顔だが同時に泣き出しそうな目でもあった。左目の下にハート、右目の下に星の形のほくろがある。
「そのコ」は私を見てやっと会えたと言ったような顔をして口を開いた。
「良かった!!キミを探してたんだよ!さあ早く列車に乗って!!」
明るくて澄んだ声を聞いて何故かずっと前からこのコにあったような気がした。だがこんな状況はどう考えてもありえない。
「いやでも乗るって言ったって、明日だって仕事があるしあなたのことも知らないから…」
「でもキミ、弥栄ヨリだろ?キミにはボクのサーカス団員になってもらう。これでキミの仕事は決まり、だよね?」
何を言ってるのかわからない。サーカス団?それって動物を操ったり曲芸をやったりするやつか。
「いやいや、そんなサーカスなんてできないし。それになんで私の名前知ってるんですか!」
シルクハットのそのコはくすっと笑って言った。
「じゃあ明日も向いていない仕事をして何者でもない弥栄さんに戻るのかい?弥栄なんてすごく縁起のいい名前なのに、この世界の人間はその意味を何にもわかっちゃいない。それよりは何にでもなれるボクのサーカス団に入って、ヨリとしての存在を証明したくはないかい?それに、ここにいればキミの願いも叶うはずだ。」
願い?そんなものとっくに忘れてしまった。だけど、また明日もいつ終わるのかもわからない労働者としての生活に戻るのだけは嫌だ。
「あらら、自分の願いを忘れちゃった?まあよくあることだ。どちらにしろキミにはどうしても乗ってもらわないと困るんだ。何しろこれには世界の存続がかかってるんだからね。」
何かよくわからないことをぶつぶつと言っている。本当にこんなわけのわからない列車に乗ってもいいのだろうか。だけど、ここで何かを変えなければ自分は一生変わらない気がしていた。
「あの、乗ります。その列車。」
シルクハットのコは嬉しそうに笑って私の手を握ると思い切り振った。
「ありがとう!!そう言ってくれると信じていたよ!そうと決まれば、早速乗ることだ!キミはまだ若い。これからできる可能性は無限大だよ!」
押し込められるように電車に乗り込むときにシルクハットのコは囁いた。
「大丈夫。ボクがキミを見つけたから。」
列車はそのまま地面を離れ月に向かって行った。月に近づくとそれは鏡のようにガッシャーンと割れて破片がキラキラと粒になって消えていった。それに気づいたのは世界でもその瞬間に本当にイマジネーションを持った子供たちだけだった。
銀河からやってきたサーカス団長は新たな団員が入る時、決まってこう言った。
「ようこそ、ミラーボールサーカスへ」